下総御料牧場はなぜ栃木へ移転したのか?成田空港建設の真相と歴史
かつて千葉県成田市三里塚に広がり、日本の近代畜産やサラブレッド生産の頂点として名を馳せた下総御料牧場(しもうすごりょうぼくじょう)。明治初期に大久保利通の主導によって開設されたこの地は、日本の農業・畜産業の近代化を牽引し、皇室向け食材の生産や数々の名馬を世に送り出した歴史的な一大拠点でした。
しかし、昭和の高度経済成長期に持ち上がった「新東京国際空港(現・成田国際空港)」の建設計画により、牧場は栃木県高根沢町へと移転を余儀なくされます。なぜ国家の近代化を支えた名牧場がこの地を追われることになったのか、その裏には当時の国政判断や用地買収を巡る知られざる力学が存在していました。本稿では、下総御料牧場の波乱に満ちた歴史から移転の真相、現在の跡地や記念館の見どころまで、徹底取材をもとにその全貌を解き明かします。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:大久保利通が主導した「取香種羊場」を源流とし、明治から昭和にかけて日本の近代畜産・競走馬育成の最高峰として君臨した。
- 要点2:1966年の新東京国際空港(成田空港)建設閣議決定に伴い、広大な国有地・皇室用地の転用が決定打となって栃木県高根沢町・芳賀町へ移転した。
- 要点3:成田の跡地は現在「三里塚記念公園」や「三里塚御料牧場記念館」として整備され、近代化遺産や桜の名所として当時の面影を色濃く残している。
【歴史の原点】大久保利通が拓いた近代畜産の夜明けと宮内庁御料牧場の誕生
下総御料牧場の歩みは、明治維新直後の1875年(明治8年)、内務卿・大久保利通が主導して設立した官営の「取香種羊場(とっこうしゅようじょう)」から始まります。欧米列強に並ぶ富国強兵と殖産興業を推進する明治政府にとって、軍服や洋服に不可欠な羊毛の自給と、国民の体格向上を目指す食肉・乳製品の生産は国家の最優先課題でした。
大久保はアメリカから農学者アップ・ジョン(Marian C. Amerman / 通称アップ・ジョン)らを招聘し、北総台地特有の広大な原野を開墾。1880年(明治13年)に宮内省(現・宮内庁)の管轄となり「下総種畜場」と改称され、さらに1885年(明治18年)に「下総御料牧場」へと改編されました。総面積は約3,000ヘクタール(東京ドーム約640個分)に及び、乳牛、肉牛、豚、羊、馬の品種改良や防疫技術の確立など、日本の畜産技術の母胎として機能しました。
皇室用の牛乳、バター、肉、鶏卵などを無農薬・高品質で生産する供給基地としての役割を担う一方、一般農家への優良種畜の払い下げを積極的に実施。日本の農業水準を根底から引き上げる司令塔としての重責を果たしていったのです。

【成田空港建設の裏側】なぜ下総御料牧場は栃木・高根沢へ移転したのか?
日本最高峰の設備と規模を誇った下総御料牧場が、なぜ千葉県成田の地を離れなければならなかったのか。その直接の契機となったのが、1960年代の新東京国際空港建設プロジェクトです。
当初、政府は千葉県富里村(現・富里市)周辺を空港候補地として内定していました。しかし、地元農民の大規模な反対運動に直面し、計画は暗礁に乗り上げます。そこで1966年(昭和41年)7月、佐藤栄作内閣は突如として建設予定地を現在の「成田市三里塚・天神峰地区」へと変更する閣議決定を下しました。
この計画変更において最大の決定打となったのが、敷地内に広大な面積を占めていた下総御料牧場の存在でした。民間農地をゼロから買収するハードルに比べ、国有地であり宮内庁の所管であった御料牧場の用地(約1,000ヘクタール規模)を転用できれば、空港用地の大部分を迅速に確保できるという政府側の思惑が働いたのです。
当時、関係者や地元住民、牧場職員の間には「近代畜産の聖地をなぜ潰すのか」という激しい苦渋と葛藤が渦巻きました。しかし、国家方針としての国際空港建設を優先する形で移転が正式決定。1969年(昭和44年)8月、天皇・皇后両陛下をお迎えして歴史的な閉場式が執り行われ、牧場機能は栃木県塩谷郡高根沢町および芳賀町に新設された「宮内庁御料牧場」へと全面移転されました。
【徹底比較】千葉・三里塚時代と現在の栃木・御料牧場は何が違うのか?
千葉・成田にあった下総御料牧場と、現在栃木県で稼働している宮内庁御料牧場は、その機能や社会的役割においてどのような違いがあるのでしょうか。歴史的経緯と現行データを比較表にまとめました。
| 項目 | 旧・下総御料牧場(千葉県成田市) | 現・宮内庁御料牧場(栃木県高根沢町) | 編集部の見解・評価 |
|---|---|---|---|
| 開設・稼働期間 | 1875年(明治8年)〜1969年(昭和44年) | 1969年(昭和44年)〜現在稼働中 | 約94年間にわたり成田で近代化を牽引し、栃木で50年以上の歴史を紡ぐ。 |
| 敷地面積 | 約3,000ha(最盛期・周辺開墾含む) | 約252ha | 三里塚時代より集約され、高効率かつ厳重な衛生管理体制へ進化。 |
| 主な役割・生産物 | 競走馬育成、全国への種畜配布、皇室用食材 | 皇室・宮中晩餐会用食材(野菜・乳肉製品・缶詰等) | 競走馬生産からは撤退し、皇室外交や儀式を支える最高品質の食材生産に特化。 |
| 一般公開・観光性 | 桜まつりや花見客で大いに賑わった名所 | 防疫および保安のため原則非公開 | 成田の旧跡地が記念公園として歴史文化を一般に公開・継承している。 |

【近代競馬と食文化】トウルヌソル導入からジンギスカン発祥説までの偉大な功績
下総御料牧場が日本の産業史に残した足跡の中でも、とりわけ競馬界と日本食文化における功績は計り知れません。
1. 日本競馬の礎を築いた伝説の種牡馬たち
大正から昭和初期にかけて、下総御料牧場は日本屈指の競走馬生産拠点でした。1927年(昭和2年)にイギリスから輸入された大種牡馬トウルヌソル(Tournesol)は、第1回日本ダービー馬ワカタカをはじめ、数多くの名馬を輩出。さらに1935年には名種牡馬ダイオライト(Diolite)を導入し、日本初の三冠馬セントライトの父となるなど、黎明期の日本競馬界を圧倒的な血統力で牽引しました。
史上最強牝馬の一頭と称される変則二冠馬クリフジも下総御料牧場の出身であり、日本のサラブレッド生産の草創期を築き上げた聖地として競馬史にその名を刻んでいます。
2. ジンギスカン料理発祥の地としての食文化
日本における羊肉料理の普及にも、下総御料牧場は深く関わっています。牧羊の普及とともに、羊特有の臭みを消して日本人の舌に合うよう考案されたのが「羊肉のたれ焼き」でした。
当時、牧場の職員や皇室料理番が試行錯誤を重ねて生み出した調理法が、現在のジンギスカン料理の原形の一つになったと伝えられています。北海道や山形など全国各地に発祥説が存在するものの、国家主導で大規模な牧羊と羊肉加工の研究が行われていた下総御料牧場は、近代羊肉食文化の重要な発信源であったことは間違いありません。
【現場検証】現在の跡地はどうなっている?三里塚御料牧場記念館と桜の名所
現在、かつての下総御料牧場の中核エリアは、千葉県成田市三里塚に位置する「三里塚記念公園」として美しく整備されています。
園内に建つ三里塚御料牧場記念館には、当時の貴重な農機具や皇室ゆかりの品々、大久保利通の直筆書簡、名馬たちの蹄鉄や血統書が展示されており、近代化遺産の息吹を間近に体感できます。また、皇族や国賓の宿泊・休憩施設として使われた由緒ある「貴賓館」や、戦時中に掘られた防空壕なども保存されています。
かつて牧場内には見事な桜並木が広がり、春になると東京方面から臨時列車が運行されるほどの「下総御料牧場 桜まつり」で賑わいました。その伝統は現在も受け継がれており、公園内の桜や、隣接する航空機ビュースポット「三里塚 さくらの丘」には、満開の桜と巨大なジェット旅客機の共演を一目見ようと多くの観光客が訪れます。

【プロの結論】国家プロジェクトと地域史の断絶から学ぶ開発と記憶の継承
下総御料牧場の成田から栃木への移転劇は、日本の高度経済成長期における「国家主導の開発インフラ」と「地域の歴史的アイデンティティ」のせめぎ合いを象徴する歴史的事件でした。
広大な牧場が空港へと姿を変えたことで、日本は世界と直結する国際航空ネットワークを手に入れました。その一方で、100年近くかけて培われた近代畜産の現場と三里塚の生活文化は、大きな断絶を経験することになります。開発のために過去の記憶を完全に消し去るのではなく、三里塚記念公園のように歴史的建造物や資料を後世へ語り継ぐ場を残したことは、現代の地域ブランディングや歴史遺産保護の観点からも極めて重要な意義を持ちます。
訪れるべき人と旅の判断基準
- おすすめしたい人:明治の殖産興業や近代化遺産に興味がある歴史ファン、日本の競馬黎明期を支えた名馬のルーツを辿りたい競馬ファン、成田空港周辺で落ち着いた歴史散策を楽しみたい旅行者。
- 注意が必要な人:「広大な生きた牧場」や動物とのふれあいを期待している方(※現在成田にあるのは記念展示公園であり、現行の栃木・御料牧場は原則一般非公開です)。
【下総御料牧場】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:現在の成田にある三里塚記念公園で動物を見ることはできますか?
A1:いいえ、動物の飼育は行われていません。現在の三里塚記念公園は、旧下総御料牧場の事務所跡地に整備された歴史公園であり、資料館の見学や四季折々の庭園散策、桜の鑑賞を目的とした施設です。
Q2:栃木県に移転した現在の御料牧場は見学できますか?
A2:原則として一般公開はされていません。栃木県高根沢町・芳賀町にある宮内庁御料牧場は、家畜伝染病の防疫や皇室用食材の衛生・安全管理のため、関係者以外の立ち入りが厳しく制限されています。
Q3:下総御料牧場と成田空港の敷地はどのように重なっていますか?
A3:成田国際空港の滑走路や誘導路、ターミナルビルを含む中心的な敷地の大部分が、かつての下総御料牧場の敷地および周辺の開墾地に位置しています。敷地の転用により、広大な空港建設用地が確保されました。
まとめ:日本の近代化を牽引した名牧場の記憶と未来
大久保利通の先進的なビジョンから生まれ、日本の畜産と競馬文化の礎を築いた下総御料牧場。成田空港の建設という時代の波に呑まれて栃木の地へと舞台を移しましたが、そのフロンティアスピリットと残された遺産は、今なお色あせることはありません。
成田を訪れる際は、空を行き交う飛行機を見上げるとともに、かつてこの地で日本の未来を切り拓いた先人たちと名馬たちの足跡に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。 (出典: 下総 御料 牧場(Yahoo!ニュース))